タイタニック号が出航したイギリスのサウザンプトン港と歴史を知れるSea City Museumを写真いっぱいでご紹介

映画タイタニックをご覧になりなしたか?

タイタニックは100年以上前のお話しですが映画によって広く知られましたね。

タイタニック号は当時ではあり得ないくらいの豪華客船でイギリスのサウザンプトンから出航しました。

今回は豪華客船タイタニック号が出航したサウザンプトン港とその歴史が展示されている Sea City Museum を訪れました。

サウザンプトンまでの行き方、ミュージアムと港の周辺を写真いっぱいでご紹介します。

本記事のハイライト

  • タイタニックが当時出航したBerth43は今も機能している
  • Berth43 の近くにプラークがある
  • Museumには多くの歴史が展示されている
  • ロンドンからサウザンプトンは電車で1時間30分
  • Museumと港の散策で3時間要する

タイタニック号が出航したイギリスのサウザンプトン港

タイタニック号は1912年4月10日にイギリスの南部の港町であるサウザンプトンからニューヨークに向かって出航しました。

そして航海の途中である4月15日未明にカナダのニューファンドランド沖で氷山に衝突して沈没しました。

まずはサウザンプトンの位置関係をおさらいしましょう。

下の地図の赤く囲った所を見てお分かりの通りイギリス南部の海沿いです。

サウザンプトンには Southampton Central 空港がありますが訪れるとしたらロンドンから電車に乗って行くことになります。

ロンドンからサウザンプトンへの行き方

ロンドン市内にある Waterloo 駅から South Western Railway(SWR)に乗って行きます。

チケットは券売機でも買えますがネットで事前に購入するとお得で便利です。

webで購入する場合は Waterloo から Southampton Central で購入します。

チケットの買い方や乗り方はこちらでご紹介しているので詳しくはこちらを参考にしてください。

詳しくはこちらの関連記事を参考にしてください!

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Weymouth & Poole行の5駅しか止まらない電車で行くと1時間30分ほどで到着します。

Waterloo駅はプラットフォームが20以上ある大きな駅なので出発時間の30分前までに到着することをおススメします。

出発の15分前くらいにプラットホームの場所が表示されるので乗車します。

サウザンプトンセントラルの改札は最後尾なのであまり前に行くと移動が多くなります。

Sea City Museum

サウザンプトンセントラル駅からは港よりも Sea City Museum の方が近いので最初に向かいました。

Sea City Museum は駅から一直線で歩いて5,6分といった感じです。

営業時間:10:00~17:00(土日も開館)

種別 チケット代
大人 £9.5
子供(5-16歳) £7.0
幼児(5歳以下) 無料
大人(65歳以上) £7.5
障害者の介護者 無料

チケットはwebでも購入できますし入口の受付でも買えます。

時間指定になっていますがよっぽど混んでいない限り受付で買って直ぐに入れます。

入口の受付ではチケットと館内のマップを頂けます。

館内の様子

館内のマップは入り口を入って真正面に大きく掲示されています。

タイタニックの歴史は2階の一角にあるので2階へ向かいます。

階段上ってすぐの所にタイタニック号の模型があります。

2階に上がって右側に進むと赤い壁の入口があります。

乗組員の紹介

入って直ぐにタイタニック号の船長を含めた乗組員が紹介されています。

左から順番にご紹介いたします。

船長 Edward John Smith

エドワード・スミス船長は1880年からホワイトスターラインに勤務。

経験豊富な船員で、同僚から尊敬されていたそうです。

ホワイトスター社による新造船の初航海で指揮を執る第一候補者だったそうです。

次にご紹介する二等航海士チャールズ・ライトラーは以下の様に述べていたそうです。

「船長はとても人気があり、どんな士官にでも耳を傾けるような人物でした。最初の感想はきっと船長は霧笛のような声だろうと想像していたが、実際心地よい静かな声でいつも笑顔だった」

スミス船長の遺体はタイタニックと共に海の底に眠っています。

二等航海士 Charles Herbert Lightoller

チャールズ・ライトラーは1887年13歳で初めて海に出て帆船の見習いをしたそうです。

1890年代には米国やカナダで金鉱探しを行いその後カウボーイになったそうです。

英国に戻り、1899年に航海士の試験を受け、士官として働く資格を取得。

翌年、ホワイトスターライン社に入社し、当時は同社の上級士官の一人で、船上でのあだ名は「ライツ」だったそうです。

タイタニック号が沈没した時は丁度一等航海士から操縦を変わっていて、換気ダクトの中に吸い込まれたそうです。

しかし海水によって生じた蒸気によって偶然水面に押し出され救命ボートに救われたそうです。

航海士は溺死したと報告されたため、チャールズの妻は何十通もの弔電を受け取りました。

しかし、4日後ににチャールズ本人から連絡を受け生存を知ったそうです。

石炭調整 Walter Francis Fredericks

1840年代に一家でドイツからサウサンプトンにやってきました。

フレデリクス一家の男性の多くは港での労働者。

ウォルターは海や港で仕事をしていたが、ここ数週間はまったく仕事が見つからなかったそうです。

炭鉱労働者のストライキで、蒸気機関船はすべてストップしてしまったそうです。

タイタニック号が氷山にぶつかった時もいつものようにエンジンデッキに行き深夜勤務に就いていました。

階段が海水で浸水しているのを発見したウォルターはデッキに向かい、救命ボート15を漕ぐことを志願したそうです。

ボートがタイタニック号から離れそこからタイタニック号を見ると、照明は明るく、バンドが演奏していたのを見たそうです。

ウォルターは救命ボートの上で短パンと半袖の作業着だったので凍えるような夜を過ごしました。

翌朝、救命ボートは救助に来たカルパチア号に助けられました。

一等客室乗務員 Mabel Bennett

メイベルは、サウサンプトン近郊のイーリング生まれ。

30歳で未亡人となり、幼い娘ステラの世話をしていたそうです。

1912年殆どの家庭では男性が賃金を稼いでいたが、夫のいないメイベルは働いていました。

最近まではタイタニックの姉妹船であるオリンピック号の客室乗務員でした。

メイベルはサウサンプトンで働いて娘ともっと長い時間を過ごしたかったに違いありません。

しかし、客室乗務員として働かざるを得なかったのです。

メイベルは救命ボート5で毛皮のコートを着てタイタニックから脱出することができました。

その毛皮のコートは、自分の物か誰かにもらった物かはわかりませんが、長く寒い夜の間彼女を暖かくしてくれました。

メイベルは1960年代までそのコートを着ていましたがそれを孫に引き継いだそうです。

三等客室乗務員 Sidney Sedunary

内陸のバークシャーで育ち、17歳のときに英国海軍に入隊するために街をでたそうです。

4年間英国海軍で勤務した後、1908年にホワイトスターラインに入社し、客室乗務員として乗船していた。

ホワイトスターラインは、タイタニックと同等の豪華客船オリンピック号を所有し、1911年にサウサンプトンから処女航海している。

タイタニック沈没時、シドニーは残念ながらハリファックスから救援船によって遺体で発見され、帰港中に海に葬られたそうです。

妻のMadgeさんは遺品としてポケットに手紙と一緒に入っていた紙幣と鍵を受け取ったそうです。

見張り Archie Jewell

アーチーはコーンウォールの船乗り一家のもとに生まれました。

初めて海に出たのは15歳のときで、当時23歳の1907年からホワイトスターラインに勤務。

船員としては若いのですが資格を持っていて、タイタニック号の6人の見張り番の一人でした。

見張りの人は仕事に適していることを証明するために視力検査を受けていました。

見張りは何時間も見張り台で見張りをしながら通常の甲板業務もこなしていたそうです。

アーチーは最初に出る救命ボートの場所を見つけ乗ったようで、ニューヨークまで行きました。

そこからコンウォールに住む姉に「ニューヨークではとてもよくしてもらい帰るお金まで集めてもらった」と手紙を書いています。

その後、アーチーと他の乗組員は55ラップランド号で英国に戻りました。

プリマスで貿易委員会の職員から事故のことを聞かれ、彼らは4月30日にサウサンプトンへ戻ったそうです。

一等客室乗務員 Edward Brown 

タイタニック号の最後の瞬間、エドワードは女性や子供を救命ボートや折りたたみ式救命ボートに乗せるのを手伝いました。

乗組員が2隻目の救命ボートを出そうとしたとき、タイタニックは左舷に傾き、エドワードは海中に投げ出されました。

エドワードは泳げませんでしたが、救命胴衣のおかげで助かり、救命ボートに乗り生還。

翌朝、救護船のCarpathia号が到着したとき彼は救助されました。

当時のサウザンプトンの紹介

さらに中に進むと当時のサウザンプトンの様子が解説付きで掲示ざれています。

サウザンプトンは当時人口約12万人の街で、街にある家は見てわかるくらい貧富の差が激しかったそうです。

タイタニック号の乗組員のうち400人近くが、最も貧しい地区の一つであるチャペルとノーサムに住んでいました。

ノーサムの家は鉄工所やマーガリン工場に近く、冬には道路が水浸しになるような所だったみたいです。

工場や港湾は仕事を提供してくれるものの安定していませんでした。

そのため労働者の多くは日雇いで、ストライキがあると日雇いの方々は何カ月も無給になっていたそうです。

1907年、世界最大級の海運会社ホワイトスター・ライン社はサウサンプトンを本拠地としました。

ホワイトスター社の港は巨大な新型のオリンピッククラスの豪華客船のために建設されました。

ここにはリバプールやロンドンよりも大きな船舶を受け入れることができる修理施設も建設され、大手造船所や修理業者もここに造船所を構えました。

豪華客船の仕事は街の人の生活の支えになっていたんでしょうね。

タイタニック出発前の港

更に奥に行くと少し明るい展示場に出ます。

ここにはタイタニックが出発前に準備していたものが絵に描かれていました。

解説を読むと、約7,000トンの荷物があったようです。

7000トンの荷物の中身は、エンジンを稼働させるための石炭、航海1週間分の食料、水、ワイン、食器、寝具、花、葉巻、その他の物資です。

特に卵や花などの生鮮品は、最後の最後で船内に持ち込まれたそうです。

膨大な食料、物資、設備は3,000以上のケースや束になって船内に運び込まれたそうです。

物資だけで7000ドンって凄いですよね。それに加えて人ですからね。

タイタニック号の大きさが良く分かりました。

他には当時使用されていた物や写真も飾ってありました。

タイタニック船内での生活

更に先に進むと今度はタイタニックの船内の様子が分かるコーナーになります。

実際にデッキで使用されていた椅子の様です。

入って真正面には1stクラスの方々が使うメインの階段の写真があります。

階段を使いたくない人用に近くにエレベーターがあり、1stクラス以外の人用の階段が別にあるようです。

その左側には操縦室の再現があり、実際に操縦体験できるようになっています。

小さな子供が一所懸命に操縦していました。

更に奥に進むと2ndクラスの客室の写真が飾ってあります。

衣装ケースや洗面台はあるものの暖房装置はついておらず1stクラスと2ndクラスでだいぶ差があったみたいですね。

以前カナダのハリファックスにあるミュージアムで室内やお値段などを解説しています。

もっと詳しく知りたい方はこちらも参考にしてください

1912年に豪華客船タイタニック号が沈没したのをご存じでしょうか? 1997年に映画タイタニックが上映されたので知っている方も多いと思います。 映画を観て実際のタイタニックのこともう少し知りたいなって感じませんか? ハリフ[…]

そのお隣にはボイラー室があります。

タイタニックが動いている以上は永遠と石炭をボイラーに入れる必要がありました。

タイタニックは1日に850トン以上、1時間に平均35トンの石炭を必要としていました。

これは2分ごとに1トンの石炭(小型車とほぼ同じ重さ)をボイラーに入れることを意味します。

スコップで石炭をすくう度に埃が舞い、ボイラーの蓋を開けるたびに灼熱の熱さで最悪の労働環境だったそうです。

通信室

手前はタッチディスプレイになっており触ると様々なドキュメントを見ることができます。

タイタニック号と外界との通信はすべてこの通信室で行われていたそうです。

モールス信号のメッセージは無線電信で送受信されていました。

この装置は日中250マイル以上の範囲をカバーし、夜間は2000マイルまで信号を送受信することができるそうです。

タイタニック号の短い航海の間に、250通以上の電報が送受信されたそうです。

送られてくるメッセージは他の船からの天気予報や氷の警告で、これらはスミス船長のためのものでした。

その一方で、発信されるメッセージは、イギリスと連絡を取りたい、ホテルを予約したい、ニューヨークで会議を開きたいなど、お金持ちの乗客からのものが殆どでした。

これは高価なサービスで、最初の10文字で12シリング6ペンスかかったそうです。

これは、タイタニック号の客室乗務員が1週間で稼ぐのと同じ額だそうです。

今の日本円に換算するとたった10文字送るのに5-6万円かかっていたんですね…。

タイタニック号沈没のニュース

ここではタイタニックが沈没した当時のニュースなどが展示されています。

右側にある受話器を取ってボタンを押すとメッセージを聞くことができます。

シアタールーム

ここではタイタニック号が沈没した原因などを追究する短編動画が上映されています。

全部見ると20-30分くらいかかります。

双眼鏡を使っていなかった、救命ボートはそこまで重要視されていなかったなど色々上映されていました。

あまり時間がなかったので半分くらいしか観れませんでした。

正面と背面の両方に上映されているのでどこに座っても観ることができます。

タイタニック沈没の教訓を生かして

こちらはCunard Adventurer号という豪華客船です。

タイタニック号の大惨事以前までは救命ボートは景観を乱すという事で目のつかない所にありました。

しかし大惨事以降、救命ボートは目につくところに移動するように改善されこのようになったそうです。

Oroya号という貨物船です。

大型船でも貨物船のように乗組員が少ない船には救命ボートは少ししか乗っていないそうです。

サウザンプトン港

Sea City Museum を堪能し終わったらそこから歩いて20分くらいでタイタニック号が出航したサウザンプトン港に行けます。

タイタニック号はBerth43というところから出航したのですが残念ながらそこはBerth46として今でも使用されているので入れません。

そこで今回は近くにある写真スポット2カ所をご紹介したいと思います。

写真撮影スポット Southampton Water View Point

実際にタイタニック号が出航した場所はBerth43(現Berth46)という場所です。

ここは今でもOcean Cruise Terminalとして使用されています。

そのため豪華客船のチケットを持っている人しか入れず一般人は近づくことができません。

何としてでもお近づきになりたいですよね?

安心してください、そこを写すことができる Southampton Water View Point があります。

ここからの景色はこんな感じです。

サムネになっている写真なのですが、丁度黄色い船が停泊しているシルバーの建築物があるところです。

実際に先程載せた Ocean Cruise Terminal の Googleマップから写真をみると大きな豪華客船が停泊しているのが見れます。

反対側の方向には丁度大型客船が停泊していたので写真を撮りました。

この辺一帯はクルーズ船が停泊するところなので観光シーズンの夏とかは賑わっていると思います。

Titanic’s Plaque

Berth46の入口近くには Titanic’s Plaque という場所があり、記念碑があります。

記念碑にはこのような事が書かれています。

1912年4月10日に処女航海で近くのBerth43から出航し、1912年4月15日に沈没して1500人以上の命を失ったRMSタイタニックの乗客と乗組員を偲んで。

ここは一般人でも行けますので行ってみてください。

さいごに

今回はタイタニック号のミュージアムと港の散策のご紹介で少し長くなりました。

実際に現地を訪れると映画とは違ったものを感じられます。

今回のようにミュージアムと港の散策は約3時間かかりました。

お昼ご飯を入れると3時間30分から4時間くらいかかると思います

ロンドンとサウザンプトンを往復するに3時間かかるので6-7時間の旅になりますので参考にしてください。

以前ご紹介しましたがカナダのハリファックスには犠牲者の共同墓地もありそこも訪れています。

もっとタイタニックを知りたい方はこちらへ

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